良い面を見るか、悪い面を見るか


何か”結果”が出たとき、あなたは良い面を見ますか?悪い面を見ますか?

テストとか資格試験の結果がかえってきたとき
プレゼンをして周りの反応を見たとき
自分の作った企画書を上司からフィードバックされたとき

あなたがなにか行動して、その結果だったり周囲の反応を見たとき、たいていの人は悪い面を見て改善しようと考えると思います。

「この問題、こうやって解けばよかったのか!」
「こういった言い方すれば、もっと話に引き込めたのかな」
「この部分が良くなかったのか。じゃあこういう風に修正しよう」

でも、もっと良い面に注目しても良いんじゃないかな~と考えています。

良い面を見る

たしかに悪い面を見て改善するの素晴らしいことだと思います。でも悪い面ばかり見てると気持ち的に辛くなり、挫折してしまうこともあるんじゃないでしょうか。

私はこの前、所属している団体の会議でファシリテーターをやりました。ファシリテーターというのは、議論を広げたり皆の意見をまとめたりして話し合いを円滑に進める役割のこと。ざっというと司会のようなものです。
このファシリテーターがすごく難しくて、小さな議論だったのですが1時間くらいかけてしまったんですよね。議論自体も右往左往して参加者を困惑させたかもしれません。それで終わってから悔しいなーという気持ちでいっぱいになりました。

でもファシリテーターって結構難しいものなんです。常に「今このことについて話してる」というのを把握しながら、相手の話を聞いてそれを広げたりまとめたり。論点がずれてる人がいたら軌道修正させる、参加者が発言しやすいよう問いかけを工夫する、などやることがたくさんあります。
しかも自分、ファシリテーターの経験がほとんどないので、「上手くいかないのはあたりまえじゃない⁉」と考え直しました。そこで自分のファシリテーションを振り返ると、皆が活発に意見を言ってくれた時間もあってよく出来た部分もあったな~と気づけました。それで少し心が楽になりました。

悪い面ばかり見てると「自分には向いてないんじゃ…」とか「自分はダメな人間なんだ」といったマイナス思考に陥りやすいでしょう。
逆に良い面を見ることで「もっと頑張ろう!」といったポジティブな気持ちになれると思います。どっちの気持ちのほうが物事を続けられるかは一目瞭然ですね。

 

良い面を見たほうがいい場合、悪い面を見たほうがいい場合

とはいえ、悪い面を見てはいけないと言いたいわけではありません。
例えばテストの場合は間違えた問題を見直して解けるようにしないと、より高い点数は取れません。私が高校時代に買ったとある参考書には「点数を上げるにはできなかった問題をできるようにするしかない」といったことが書かれていました。

良い面を見る、悪い面を見るというのは、どっちがいい、という問題ではありません(前回の記事でもこんなこと書いたような…)

 

asuta.hatenablog.com

 

じゃあどういった場合に良い面を見て、どういった場合に悪い面を見ればいいのか。
自分の中では結果を客観的に表せるかどうかで決めるのがいいと思います。

例えばテストやスポーツの試合では、点数や勝敗といった目に見える結果が出ます。具体的な指標が出ることで良い悪いという判断がしやすくなるでしょう。(80点を目標にして60点だったら、たいていは良くなかったと思うはずです)。
腕立て伏せ15回を目標にしてキツイから10回で終わった。これは改善すべきだと思います。キツくなってからあと1,2回頑張ることで筋肉は成長するので、悪い面を見てもっと努力すべきです(健康のためで回数関係なくやればいい、などの目的なら話は別ですが)。

一方、客観的に表せない、目に見えないものなら良い面を意識する必要があります。代表例がコミュニケーション。あなたは「良いコミュニケーション」という状態を具体的に表せますか。コミュニケーションって正解がないですし、「良いコミュニケーション」の状態もたくさんあります。客観的に表せないため良い状態というのがわかりにくいわけです。
また人間はどうしても悪い面を見てしまう生き物。そのため良い状態を把握してないと、いつまでも悪い面ばかり見てしまう可能性があります。
だからこそ良い面を意識しておく必要があるんです。

また初心者のときは良い面を多く見るほうがいいと思います。最初は誰だって上手くいかないものなので、モチベーションを維持するためにも”できた”という状態を増やしておく必要があります。

 

悪い面を見て改善=美学という風潮

日本人は悪い面を見過ぎなんじゃないかと感じています。これには「悪いところを見て改善するのは素晴らしい」、そして「良いところを見るのは自分を甘やかしてる」という風潮が原因だと思います。

たとえば「腕立て伏せを10回頑張りました!」というツイートが流れていたらどう思うでしょうか。中には「世の中には20,30回できる人だっているし。その程度では頑張ったに入んねぇよ」と考える人もいると思います。どうも「頑張った」と言ったら「その程度では甘い」と他人の努力を認めない人が一定数いるように感じます。
また日本人は小学校からずっとテストをやってきて、間違ったところを見て改善するという習慣が染み付いてるのも一因だと思います。だから悪い面を見ろ、とつい強要したくなるのではないでしょうか。

でも何をもって頑張ったといえるかはその人次第です。腕立て伏せが5回できる人なら6回やるだけで頑張ったといえます。1回もできない人なら1回やるだけで成長です。そもそも他人の腕立て伏せの回数が1回だろうが10回だろうが他の人の人生に影響はあるのでしょうか。何回やろうがその人の勝手なのに、わざわざ「もっと頑張れ」と強要する意味はあるのでしょうか。

人々が他人の頑張りを認めれる世の中になれば、みんな生きやすくなるだろうな~と思います。自分も他人に寛容でいらえるようになりたいです。

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